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石垣(いしがき)は、日本海軍の海防艦。占守型海防艦の4番艦。占守型4隻中、唯一対潜水艦戦闘で撃沈戦果を挙げた艦にして唯一の戦没艦。就役してから撃沈されるまでのほとんどの期間、大湊以北で行動した。 ==艦歴== マル3計画の1,200トン型海防艦〔予算要求時の排水量。実際には900トン型として設計され、300トン分の予算×同型4隻分は大和型戦艦に流用したとされる。〕、仮称艦名第12号艦として計画。1939年8月15日、株式会社玉造船所で建造番号263番船〔『三井造船株式会社75年史』、p. 816。〕として起工。1940年4月15日、進水。計画時の予定艦名は宮古〔軍令部第一課が1938年10月に作成した「昭和十九年度戦時編制案」では第五艦隊第21戦隊を構成する海防艦4隻の艦名として、「昭和二十五年度戦時編制案」では第五艦隊第25戦隊を構成する海防艦4隻の艦名として、それぞれ「占守、國後、八丈、宮古」の記述がある。また、同年11月に作成された「昭和十九年初頭ニ於ケル保有艦船一覧表」では、海防艦6隻の艦名として「占守、國後、八丈、宮古、見島、御蔵」とある。〕だったが、7月25日、海防艦石垣と命名された。1941年2月15日竣工し、本籍を舞鶴鎮守府に、役務を舞鶴鎮守府警備艦にそれぞれ定められる。同日付で大湊要港部部隊に編入〔大湊要港部は1941年11月20日、大湊警備府に改組。〕。 太平洋戦争の開戦時は軍隊区分千島防備部隊に配され幌筵島沖で哨戒中。12月13日、幌筵島乙前湾口から逃走したソ連船クズネツリストロイ号を温禰古丹水道まで追跡し臨検する。14日、松輪島大和湾で座礁した特設砲艦瑞興丸を救難するため派遣され、30日まで同艦の救難に従事。 1942年1月11日、幌筵島東方でソ連船''Jiaitra''号を臨検。16日、哨戒任務を八丈と国後に引継ぎ、大湊へ回航。22日から31日まで、大湊で訓令による爆雷増備と舷外電路の設置工事を行う。工事終了後は幌筵島へ戻り、北千島での哨戒に従事。 7月1日、艦艇類別等級の改正により軍艦から除かれ艦艇の海防艦となり、役務を舞鶴鎮守府警備海防艦に定められる。16日、温禰古丹水道で座礁した特設運送船球磨川丸を救援するため神風とともに派遣され、同船を幌筵島加熊別まで曳航。9月11日、軍隊区分津軽防備部隊作戦指揮下に編入。同部隊宮古隊に配され、三陸海岸沖の哨区で行動。 10月26日、津軽防備部隊作戦指揮を解かれ、千島防備部隊指揮下に復帰。11月25日、千島防備部隊は大湊警備府隷下に新編された千島方面特別根拠地隊指揮下となる。また、千島方面特別根拠地隊の旗艦に指定された特設砲艦第二号新興丸の旗艦設備工事と北千島進出が成るまで、石垣海防艦長が千島防備部隊の指揮を執ることとなった。12月29日、キスカ島行き船団を護衛し幌筵発。1943年1月6日、幌筵に帰着。 1943年1月25日から28日まで、幌筵島で座礁した特設運送船第二号東光丸の救難に従事。2月7日から13日まで、アッツ島行き第13船団(山百合丸)を護衛。22日から3月26日まで、大湊で入渠整備。8月5日、千島方面特別根拠地隊は千島方面根拠地隊に改編され、大湊警備府隷下から北東方面艦隊隷下となる。 10月8日、幸光丸の護衛を中止し幌筵島片岡湾へ帰投中、阿頼度島魚見崎よりの方位295度16.8カイリの地点で、浮上砲戦を挑んできたアメリカ潜水艦S-44と交戦し、これを撃沈した。石垣に被害は無く、捕虜2名を収容し9日片岡湾に帰投。20日、カニ漁母船笠戸丸ほか2隻を護衛し幌筵発、23日小樽着。28日、笠戸丸ほか3隻を護衛し小樽発。稚内を経由し、11月5日幌筵着。 11月9日、陸軍船浦塩丸ほか1隻を護衛し幌筵発。北緯49度線まで護衛したのち、対潜掃蕩を行いつつ13日幌筵に帰着。24日、陸軍船昭浦丸ほか2隻を護衛し幌筵発。30日大湊着。12月1日から1944年1月9日まで、大湊で入渠修理。 1944年1月15日、第二海上護衛隊作戦指揮下に編入。20日横須賀着。25日、船団を護衛し横須賀発。2月4日、トラック着。7日、復航船団を護衛しトラック発。25日、第二海上護衛隊作戦指揮を解かれ、軍隊区分北方部隊に編入。29日、横須賀着。 3月6日、特設運送船日帝丸を護衛し大湊発、11日松輪島着。4月2日、特設運送船日帝丸を護衛し大湊発、4日釧路着。7日、ヌ船団を護衛し釧路発、14日幌筵着。15日、リ船団を護衛し幌筵発、24日大湊着。30日、カ船団を護衛し大湊発。途中、釧路と松輪島に寄港し、5月19日小樽着。20日、ネ船団を護衛し小樽発、24日松輪島着。31日、ネ船団を護衛し松輪島を出港したが、同日1100、松輪島西方の地点でアメリカ潜水艦ヘリングの攻撃により艦首を亡失するも、そのまま爆雷攻撃を実施していたが〔#駒宮pp.185-186〕、程なく沈没した。ネ船団もヘリングとバーブの攻撃を受け全て撃沈された。乗員167名中、バーブに救助された1名を除く、海防艦長の瀬戸末吉少佐以下乗員166名が戦死した。 7月10日、石垣は占守型海防艦から削除され、帝国海防艦籍から除かれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「石垣 (海防艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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